ボンヘイとの再会:カンボジア

2016年02月01日取材 海外

2015年の年末から2016年年明けにかけて、4年ぶりにカンボジアを訪れました。3週間の滞在の後半は、以前取材をしたボンヘイという男の子を探すためシェムリアップに移動しました。このwebsiteのポートフォリオ「ボンヘイのストーリー」に紹介してありますが、私がボンヘイに出会ったのは2009年の11月。観光地であるシェムリアップ中心部の繁華街から空港へ向かう大通りから小さな路地を入った所に、当時8歳だったボンヘイはおばあちゃんとお母さんそして2匹の犬と6帖ほどの高床式の小さな住居で生活していました。HIVに母子感染して生まれたボンヘイは、生まれつき耳が聞こえず、言葉も話すことが出来ない障害を抱えながらも、 お母さんとおばあちゃんに大切に育てられていました。私はボンヘイの家に約1週間泊まりながら取材をしたのですが、お母さんは将来どうやってボンヘイが一人でHIVに向き合って生きて行くのか、をとても心配していました。

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(2009年、当時8歳のボンヘイ)

 

2年後の2011年、再びボンヘイの家を訪ねると、かつてボンヘイが暮らしていた家は空き家になっていました。近所の人にボンヘイの居場所を聞いてみても「知らない、、」と口を揃え、どうしようかと思っていると、たまたま近くで会話を聞いていた男の子が「僕知っているよ!」と話しかけてくれました。その子に言われるがままに付いて行くと、アンコールワットのチケット売り場近くの集落に辿り着きました。ボンヘイのお母さんは既に2年前にエイズを発症し亡くなり、おばあちゃんと2人暮らしをしていました。2009年には学校に通っていたボンヘイは、この時には学校を辞めていて、おばあちゃんと遊園地などで空き缶を集める仕事をしていました。お母さんが亡くなったためか、10歳になったボンヘイはおばあちゃんを自分で支えなければと思っているのかなと2人の暮らしを見て感じました。

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(2011年、2回目の取材の最終日。10歳になったボンヘイとボンヘイのおばあちゃんと2人が暮らす家の前で)

そして3回目の今回。4年前にボンヘイがおばあちゃんと暮らしていた家がある集落に行くと、2人の姿はありませんでした。近所の人たちに話を聞くと、2年前におばあちゃんが亡くなり、その後はボンヘイがどこへ行ったか分からないと話をしていました。2人が暮らしていた家があった場所に行ってみると、家の形は残っていたものの、ペンキで木の壁が真っ赤に塗られ、中を覗いてみると戦争博物館に展示しきれなかった弾や武器の置き場になっていました。その瞬間「孤児になってしまったボンヘイはどうなってしまったのか!」と不安になり、近所の人たちに聞いても誰も分からず、結局近所の男性に私とこの時にたまたま運転をしてくれていたトゥクトゥクのドライバーの運転手の携帯電話の番号を伝え、ボンヘイの居場所を調べてほしい、そして分かったら連絡をして欲しいと伝えました。せめて、おばあちゃんが亡くなる前に訪ねていれば良かった、、と思っていた、その時「僕その子の場所を知っているよ!」と男の子が話しかけてきました。4年前と同じように住居をかえたボンヘイの居場所を知っていたのは同世代の子どもでした。10歳ほどに見えるこの16歳の少年の後を付いていくと、外国人観光客で賑わうシェムリアップのオールドマーケット近くの路地裏からボンヘイが出てきました。4年ぶりに再会するボンヘイはビックリしたことに私を見るとニッコリ笑い握手をするために手を差し伸べてくれました。髪の毛はボサボサで洋服は汚れていました。昼間は道ですれ違う外国人観光客にお金を貰い、夜はシャッターが閉まった店の前の道路で寝ている、とジェスチャーで伝えてくれました。その時、「ボンヘイの名前を知っていて、ボンヘイの家族に会ったことがあって、しかもボンヘイがHIVに感染していることを知っているのは、もう私一人しかいないのではないか」とその状況が信じられなくなりました。すぐにボンヘイを連れて運転手と一緒にまずは近くの屋台で簡単な食事をしました。ボンヘイはHIVに感染して、家族もなくし、頼れる人が誰もいない中で、一人でたくましく生きているんだと、このあまりに理不尽な現実を受け入れられなくなりました。2年前に使っていたお気に入りの自転車はボンヘイよりも大きな他の孤児たちに壊されてしまったとのことでした。 初日に運転手をしてくれたトゥクトゥクの運転手ピトゥーと相談し、ボンヘイと再会した3日後にシェムリアップにあるアンコール小児病院へボンヘイを連れて行きました。というのも、6年前にお母さんと一緒にボンヘイが時々診察を受けていたことを思い出し、この病院だったら孤児院を紹介してくれるのではないかと思ったからです。ボンヘイを連れて病院の受付で事情を説明すると、すぐにHIVの診察セクションへ案内してくれました。診察室から女性の看護師が出てくると、彼女がボンヘイを見るなり、「も〜この子探していたの、ここ数日間!連れてきてくれてありがとう」と突然フレンドリーに話しかけられました。するとボンヘイが照れ臭そうに下を向きました。最初は事情が掴めなかったのですが、話を聞くと、おばあちゃんが亡くなった後、ボンヘイは小児病院に紹介されたNGOに引き取られ、NGOの施設に入所したのですが、時々他の子と喧嘩をしたりして、施設を逃げ出すことがあると教えてくれました。私がボンヘイに出会ったのはちょうど施設を逃げ出している時だったのです。病院の看護師の女性がNGOのケアマネジャーに連絡を取ると若い男性がバイクですぐに飛んできました。最初はこのNGOがどれだけボンヘイの面倒を見ているのか不安に思ったのですが、ボンヘイが施設にいない時にもどこで行動し、どこで寝ていて、私がボンヘイに出会ったオールドマーケット近くのお店の前で寝ていることも全て把握していました。ボンヘイの担当者であるこのNGOの男性の名前はチャントルさん。「施設は刑務所ではないのだから、ドアはいつもオープンにしてある。ボンヘイが外に出たいと思う時に、私たちには彼を力づくで連れ戻す権利はないんです。その代わり、ボンヘイが施設の外でどう生活し、どこで寝ているのかはいつもフォローし、時々HIV患者が飲む薬を飲ませるために、ボンヘイがたむろしている道端へ行って飲ませたりしています」という。時々気が向いた時に施設にフラッと帰ってくるのだそう。そしてしばらくすると外に行くのだそうです。シェムリアップが安全な町だからこそ、ボンヘイに自由を与えられるのだなと思いました。そして、確かにチャントルさんの言う通り、ボンヘイの意志を尊重して、ちょうどいい具合にボンヘイをしっかりフォローしていただいているのが分かり、本当に安心しました。おばあちゃんが亡くなってからの2年間はこのようにしてボンヘイのケアをしてきたそうです。この日ボンヘイはチャントルさんと一緒にNGOの施設に帰ることになりましたが、その前にNGOが経営するカフェで ボンヘイとチャントルさんと一緒にランチをしました。ボンヘイは4年前よりも、ジェスチャーでコミュニケーションを取るのが上手くなっていて、私とも意思疎通がそこそこ出来るようになっていました。驚いたのは、4年前にボンヘイとボンヘイのおばあちゃん3人で自転車に乗って、空き缶を集めるために遊園地に行った帰りに、私が自転車に乗りながら、自転車を運転するボンヘイの後ろ姿を撮影していた時のことを凄く楽しそうに伝えてきてくれたこと。4年前の滞在は数日間だけだったのに、当時のことを覚えていてくれたことが分かり、とても嬉しく思いました。

カフェでランチをした2日後、再びボンヘイを訪ねにNGOの施設にいきました。その時にチャントルさんがボンヘイにエイズの発症を遅らせる抗レトロウィルス薬についてジェスチャーで説明している姿を目にしました。チャントルさんによると、ボンヘイはエイズのことを100%理解していなくても、この薬を飲むことがとても大切だということはちゃんと理解しています、と話していました。
この時に、6年前に今は亡くなってしまったボンヘイのお母さんが、「息子が一人になった時にどうやってHIVに向き合って生きて行くのか。。。」と心配していた時のことを思い出しました。家族がいなくなっても、ボンヘイがこうやってたくましく生きている姿を、きっとボンヘイのお母さんは安心して天国から見ているんだろうな、と思いました。

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(2016年1月、14歳のボンヘイと)

 

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(ボンヘイをサポートするNGO が経営するカフェで、NGOのスタッフとボンヘイとランチをした時に:2016年1月)

 

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(ボンヘイにエイズの発症を抑える薬についてジェスチャーで説明するNGOスタッフのチャントルさん:2016年1月)

「Terra Mater」誌掲載  

2015年12月20日メディア 取材

欧米の英語圏、ドイツ語圏で読まれているオーストリアの雑誌「Terra Mater」誌の取材で、世界一発行部数の多い新聞社である読売新聞の記者の方々の目を通して見た、「東京」というテーマで今年の夏にドイツからやって来た記者のTobiasさんと通訳のエリナさんと一緒に取材したストーリーが今月号の紙面に20ページ掲載されました。取材中は読売新聞の記者の方々・広報の方々に本当にお世話になりました。

http://www.terramatermagazin.com

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