震災1年の取材を振り返って 4月

2012年03月23日取材 日本

4月半ばに一度シュピーゲルのアサイメントが終了した。
その後、福島原発から20km圏内が警戒区域に指定されるということが報道されたので、再び福島へ。
それまで一緒に20km圏内で取材をしていた、友達のカメラマンのアティットは既にタイに帰国していたので、どうしても運転出来る人が必要だった、、、(私は運転出来ないので)。でも、当時一緒に20km圏内に行ってくれる友だち&カメラマンがいなかったので、母に頼んで南相馬まで運転してもらうことにした。警戒区域に指定される前日の4月21日、一緒に南相馬、浪江、双葉まで車で運転をしてくれた(感謝)。「絶対に明日は来ないからね。違法なことはしないからね!絶対!」と念を押され、とりあえず21日は圏内で撮影。翌日から警戒区域に指定されるとあって、自宅に荷物を取りに帰るのか、圏内の車の数がすごかった。

翌22日、母にはホテルで待っていてもらって、私は4月始めにシュピーゲルの取材で写真を撮らせていただいた、酪農家の方に再会し圏内の自宅に馬を残してきているというので、一緒に徒歩で圏内に入った。

 

津波で馬は生き残ったが、原発の事故で2週間新潟に避難している最中に約40頭いた馬のうちの数頭が餓死をしてしまったという。せめて生き残った馬たちは何が何でも助けなければと、警戒区域に指定された後も自宅へ通い続けた。
「家にも帰れないし、仕事も失ってしまったけど、借金してでも馬を守る!」と話していた。

今年2月に10ヶ月ぶりに訪ねると、馬事公苑で生き延びた馬たちを育てていた。あの後、何度も粘って、馬を圏外に出す事が出来たという。

―5月―

20110503-DSC_9395-400x266

 

5月に入ると、最初の1週間はグリーンピースインターナショナルの放射線海洋調査の撮影のアサイメントが入った。
福島第一原子力発電所の事故により海洋に流出した放射性物質の海産物への影響を調べるため、グリーンピースの放射線専門スタッフが海外から来日し、グリーンピースジャパンと宮城、福島、茨城、千葉沖の海藻や魚などのモニタリングを行った。

(写真は、宮城で漁師の方の船に乗せてもらい、海藻を取りに行くところ)

5月後半は再びドイツのSpiegel誌の取材のアサイメントが入り、今度は飯舘村へ。

20110517-DSC_9751-400x266

(飯館ミートプラザ)

 

20110518-DSC_0115-11-400x266

(村の風景)

 

20110517-DSC_9735-400x266

 

5月後半は、まだまだ子どもと一緒に飯館で生活する方も何人か見ました。
4月半ばに突然、計画的避難地域に設定され、1ヶ月以内の全村避難を告げられた村の住人の方たちの中には、どこへ避難していいのか、まだまだ戸惑っている方も多くいました。(現在、公式には全村民が避難しています)

震災1年の取材を振り返って
Spiegel

2012年03月23日取材 日本

震災直後から4月始めまでの3週間、撮影をして車の中で編集、インターネットが繋がる環境になったら写真を配信してという毎日の繰り返し。全ての写真に英語でキャプションを書くのに時間がかかって、ヘトヘトになりながらの取材だった。。。
被災地で出会った、ボランティアの方々や被災をされた方々のことを考えると、もっと頑張らなくてはと思いました。

これは、4月のSpiegel誌で最初に掲載された震災の写真です。南三陸町の沿岸部を歩く男性の写真。
この時一緒だったドイツ人の記者Walterは、かなりのベテラン記者で、少し気難しい所もあったけど、いい人でした。今でも被災地の事を気にされて時々連絡をくれます。

spiegal_april-400x261

[DER SPIEGEL  April 10 2011]