9月の最初の2週間は、シュピーゲル誌のアサイメントで福島原発の作業員の拠点となっているJビレッジの取材。
今まで2回一緒に仕事をした、ドイツ人女性記者のコルドラが再び来日した。
正式な取材許可を貰っていなかったので、私もコルドラも少しづつ少しづつ撮影と取材を開始。いつもはニコンのD700で撮影した私も、あまりカメラが大きくては目立つので、コンパクトカメラ&D40で撮影。あ〜コンパクトカメラの使い方が分からず、イライライライラ。。。。結局D40で撮影した。この写真は原発からJビレッジの帰ってきた作業員の方が防護服や手袋などを脱ぎ捨てている所。
スクリーニング会場の近くのグランドに3月20日から貯められている、作業員の防護服やマスクの山。
11月の東電の代表取材の際には、これらの防護服やマスクは片付けられていたそう。。
その防護服の間に入って様子をメモする記者のコルドラ。それにしても、このコルドラの取材力っていうか、仕事に対する熱意が凄い。ドイツで準備してくる資料の量も半端がなく、福島原発の中の構造まで既に詳しく知っていた。数年前、アフリカのスーダン内戦の取材で走り回っていたと聞いたけど、さすが!だと思った。これまで一緒に取材をしてきた、海外の記者はコルドラ以外全員男性だったけど、コルドラほどエネルギーのある記者はいなかった。写真のことも考えてくれて、本当に一緒に仕事をしやすい素敵な女性です:)
記者のコルドラ Jビレッジ正面玄関にある防護服の箱の前で。
この直後に、東電のスタッフに見つかり外へ連れ出されてしまった。。。ちゃんと許可を取るように、と言われたので、「申請しても認められないから、仕方なく勝手に入らせていただきました、、、」としか返事が出来なかった。
原発復興作業に関わる方たちが生活するJビレッジの寮。
以下の写真は、取材から2週間後のシュピーゲル誌に掲載された写真です(4ページ)。
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4月半ばに一度シュピーゲルのアサイメントが終了した。
その後、福島原発から20km圏内が警戒区域に指定されるということが報道されたので、再び福島へ。
それまで一緒に20km圏内で取材をしていた、友達のカメラマンのアティットは既にタイに帰国していたので、どうしても運転出来る人が必要だった、、、(私は運転出来ないので)。でも、当時一緒に20km圏内に行ってくれる友だち&カメラマンがいなかったので、母に頼んで南相馬まで運転してもらうことにした。警戒区域に指定される前日の4月21日、一緒に南相馬、浪江、双葉まで車で運転をしてくれた(感謝)。「絶対に明日は来ないからね。違法なことはしないからね!絶対!」と念を押され、とりあえず21日は圏内で撮影。翌日から警戒区域に指定されるとあって、自宅に荷物を取りに帰るのか、圏内の車の数がすごかった。
翌22日、母にはホテルで待っていてもらって、私は4月始めにシュピーゲルの取材で写真を撮らせていただいた、酪農家の方に再会し圏内の自宅に馬を残してきているというので、一緒に徒歩で圏内に入った。
津波で馬は生き残ったが、原発の事故で2週間新潟に避難している最中に約40頭いた馬のうちの数頭が餓死をしてしまったという。せめて生き残った馬たちは何が何でも助けなければと、警戒区域に指定された後も自宅へ通い続けた。
「家にも帰れないし、仕事も失ってしまったけど、借金してでも馬を守る!」と話していた。
今年2月に10ヶ月ぶりに訪ねると、馬事公苑で生き延びた馬たちを育てていた。あの後、何度も粘って、馬を圏外に出す事が出来たという。
―5月―
5月に入ると、最初の1週間はグリーンピースインターナショナルの放射線海洋調査の撮影のアサイメントが入った。
福島第一原子力発電所の事故により海洋に流出した放射性物質の海産物への影響を調べるため、グリーンピースの放射線専門スタッフが海外から来日し、グリーンピースジャパンと宮城、福島、茨城、千葉沖の海藻や魚などのモニタリングを行った。
(写真は、宮城で漁師の方の船に乗せてもらい、海藻を取りに行くところ)
5月後半は再びドイツのSpiegel誌の取材のアサイメントが入り、今度は飯舘村へ。
(飯館ミートプラザ)
(村の風景)
5月後半は、まだまだ子どもと一緒に飯館で生活する方も何人か見ました。
4月半ばに突然、計画的避難地域に設定され、1ヶ月以内の全村避難を告げられた村の住人の方たちの中には、どこへ避難していいのか、まだまだ戸惑っている方も多くいました。(現在、公式には全村民が避難しています)