トルコ:サフランボル!

2016年06月17日取材 海外

トルコでの取材の後に、3年前に子ども向け写真絵本「世界のともだち・トルコ版」で取材をした女の子エブラールに会いに再び黒海の近くの小さな街サフランボルを訪れました。9歳だったエブラールは12歳になり、身長も私とほとんど変わらないくらい大きくなっていました。サフランボルは世界遺産に登録されたとっても平和で、可愛らしい街。トルコに行く機会がある方は、是非サフランボルまで足をのばして、エブラールの家の2階のペンションに滞在してみて下さい!!

⇒booking.comのサイト
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ガンビア新聞社時代の記者との再会@ドイツ

2016年02月26日取材 海外

2月13日から取材のためドイツに来ています。
撮影の合間に何とか時間を作って、どうしても会いたかった友人を訪ねに南部の町ウルムにやってきました。

私が大学生だった2006年に西アフリカの小国リベリア共和国を訪れ、現地の新聞社「The Point」で写真の活動を始めました。写真のこともカメラのことも分からない一人の日本人学生だった私を受け入れてくれた、この新聞社での経験がなければ、私は写真の仕事をしていなかったと思います。その時にとってもお世話になった、ジャスティスという名前の記者が今、ドイツで暮らしています。

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(川辺のベンチに座るジャスティス)

詳しくは私の著書(「フォト・ドキュメンタリー 人間の尊厳」岩波書店)に書いていますが、ガンビア共和国は定年後に移住するイギリス人夫婦が多く、普通に暮らしていれば平和な日常が溢れています。しかし、報道・言論の自由が脅かされているガンビアのジャーナリストは命がけで取材活動をしていました。私が働いていたThe Point Newspaperの創刊者で編集だったDayda Hydara氏も政府の批判を記事にしたことで射殺され、今でも行方不明のままの記者や、ガンビア国内の新聞社やラジオ局が政府により閉鎖されることが何度もあり政府とメディアとの間で緊張感が続いてきました。

http://thepoint.gm

 

私がお世話になったジャスティスは、私が新聞社で働いていた頃からガンビアで報道出来ないニュースを海外のメディアに発信し続けていました。

 

このFreedom Newspaperというオンラインのニュースサイトはガンビアから亡命した記者によって設立され、ジャスティスも当時はこのサイトにガンビアから密かに記事を配信していました。
http://www.freedomnewspaper.com

 

私が最後にThe Point紙で活動したのは2007年6月でしたが、それから1年後、ジャスティスがFreedom newspaperに記事を送っていることが政府に見つかり、携帯のメッセージに脅迫文が送られてきたり、政府の関係者に呼び出されることがあったそうです。自分の命が本当に危なくなっていると気づいた直後のある日、取材の帰りにタクシーから降りて自宅へ向かっている途中、突然刃物を持った政府軍のユニホームを着た男性に襲われました。命からがら自宅まで走り、その男に押さえつけられているところで、騒がしい物音に気づいた近所の住民たちに助けてもらったそうです。

 

ジャスティスはそのまま隣国のセネガルへ逃げました。

ここまでは私も知っていたことなのですが、今回ドイツで9年ぶりにジャスティスに再会し、セネガル以降の話を聞くことが出来ました。

 

セネガルに渡った後も、ガンビアのニュースをfreedom newspaperに配信し続けていましたが、ガンビアに残されている両親の身が心配になったため、ジャーナリズムからは離れ、リビアでの工事現場での仕事を紹介してもらい陸路でリビアへ向かったそうです。しかし、リビアでは内戦が始まり、人が殺し合っているのを目の前で目撃し、このままでは戦争に巻き込まれて死んでしまうと思ったため、とにかく港を目指して逃げたところで、ヨーロッパに向かう難民を乗せたボートに飛び乗ったのだそうです。空気を入れただけのオレンジ色のボートには100人ほどが乗っていたそうで、いつ沈んでもおかしくない状況の中、何とかヨーロッパに辿り着きますように、と願いながら10時間、海の上をさまよったそうです。「もうこのまま死んでしまうかもしれないと思っていた時に、陸が見えたんだ。ヨーロッパに近い海の水の色はアフリカ大陸を出た時の色と全然違うんだよ、本当に」
ジャスティスが辿り着いたのはイタリアの海岸でした。

そこから徒歩でドイツへやってきました。

今、ジャスティスはドイツ南部の街ウルムにある難民収容施設で暮らしています。学校のようなビルの中で彼の暮らすフロアには、100人ほどのアフリカからの難民の男性たちが共同生活をしていました。そのほとんどが経済難民で、ジャスティスのような政治難民は他にいるかどうかは分かりません。
国内情勢や海外のニュースをいつもチェックして知識が深いため、他の難民から「Professor」と呼ばれているそうです。
ジャスティスは2ヶ月前からドイツ語を勉強し始めたそうですが、「どんなに貧しくても、本当はガンビアにいたかった。記者でさえなければあの国は本当に過ごしやすいからね。単なる難民としてドイツで生活するのは本当にしんどいよ。やりがいを感じながら出来る仕事につかないで、こうやって毎日を過ごしていて、バカみたいだ。僕はアフリカから来ているからね、ドイツ人は僕を見ると薬物の売人だと思って声をかけてくる人だっているんだよ」とため息をつきながら話してくれた。

「僕はいつだってジャーナリストに戻りたいし、それ以外の仕事は考えられないんだ。何もいらないから取材活動がしたい。いつかガンビアの状況が変わる日が来たら、ガンビアに戻って新聞社を作りたいと思っているんだ」ということを何時間もずっと語っていました。

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(難民収容施設のベッドに腰掛けるジャスティス)

ドイツでは連日、難民問題がニュースで報道されています。日本にいる時にヨーロッパへ押し寄せる難民のニュースをテレビで見ていると、どうしても遠い国で起きていること、日本とは関係のない問題と思ってしまいがちですが、こうやって個人的にお世話になった人で、ドイツに来る前のことをよく知っている友人の今の難民としての暮らしを垣間みることで、この難民問題がよりパーソナルなものとして私の中で考えるようになっています。

いつか、ガンビアがジャーナリストにとって活動しやすい国になり、ジャスティスがガンビアに戻って新聞社を作ることが出来る日が来ますように。その時には、また是非写真を取らせて欲しいなと思います。