ガンビア新聞社時代の記者との再会@ドイツ

2016年02月26日取材 海外

2月13日から取材のためドイツに来ています。
撮影の合間に何とか時間を作って、どうしても会いたかった友人を訪ねに南部の町ウルムにやってきました。

私が大学生だった2006年に西アフリカの小国リベリア共和国を訪れ、現地の新聞社「The Point」で写真の活動を始めました。写真のこともカメラのことも分からない一人の日本人学生だった私を受け入れてくれた、この新聞社での経験がなければ、私は写真の仕事をしていなかったと思います。その時にとってもお世話になった、ジャスティスという名前の記者が今、ドイツで暮らしています。

20160221-DSC_8804

(川辺のベンチに座るジャスティス)

詳しくは私の著書(「フォト・ドキュメンタリー 人間の尊厳」岩波書店)に書いていますが、ガンビア共和国は定年後に移住するイギリス人夫婦が多く、普通に暮らしていれば平和な日常が溢れています。しかし、報道・言論の自由が脅かされているガンビアのジャーナリストは命がけで取材活動をしていました。私が働いていたThe Point Newspaperの創刊者で編集だったDayda Hydara氏も政府の批判を記事にしたことで射殺され、今でも行方不明のままの記者や、ガンビア国内の新聞社やラジオ局が政府により閉鎖されることが何度もあり政府とメディアとの間で緊張感が続いてきました。

http://thepoint.gm

 

私がお世話になったジャスティスは、私が新聞社で働いていた頃からガンビアで報道出来ないニュースを海外のメディアに発信し続けていました。

 

このFreedom Newspaperというオンラインのニュースサイトはガンビアから亡命した記者によって設立され、ジャスティスも当時はこのサイトにガンビアから密かに記事を配信していました。
http://www.freedomnewspaper.com

 

私が最後にThe Point紙で活動したのは2007年6月でしたが、それから1年後、ジャスティスがFreedom newspaperに記事を送っていることが政府に見つかり、携帯のメッセージに脅迫文が送られてきたり、政府の関係者に呼び出されることがあったそうです。自分の命が本当に危なくなっていると気づいた直後のある日、取材の帰りにタクシーから降りて自宅へ向かっている途中、突然刃物を持った政府軍のユニホームを着た男性に襲われました。命からがら自宅まで走り、その男に押さえつけられているところで、騒がしい物音に気づいた近所の住民たちに助けてもらったそうです。

 

ジャスティスはそのまま隣国のセネガルへ逃げました。

ここまでは私も知っていたことなのですが、今回ドイツで9年ぶりにジャスティスに再会し、セネガル以降の話を聞くことが出来ました。

 

セネガルに渡った後も、ガンビアのニュースをfreedom newspaperに配信し続けていましたが、ガンビアに残されている両親の身が心配になったため、ジャーナリズムからは離れ、リビアでの工事現場での仕事を紹介してもらい陸路でリビアへ向かったそうです。しかし、リビアでは内戦が始まり、人が殺し合っているのを目の前で目撃し、このままでは戦争に巻き込まれて死んでしまうと思ったため、とにかく港を目指して逃げたところで、ヨーロッパに向かう難民を乗せたボートに飛び乗ったのだそうです。空気を入れただけのオレンジ色のボートには100人ほどが乗っていたそうで、いつ沈んでもおかしくない状況の中、何とかヨーロッパに辿り着きますように、と願いながら10時間、海の上をさまよったそうです。「もうこのまま死んでしまうかもしれないと思っていた時に、陸が見えたんだ。ヨーロッパに近い海の水の色はアフリカ大陸を出た時の色と全然違うんだよ、本当に」
ジャスティスが辿り着いたのはイタリアの海岸でした。

そこから徒歩でドイツへやってきました。

今、ジャスティスはドイツ南部の街ウルムにある難民収容施設で暮らしています。学校のようなビルの中で彼の暮らすフロアには、100人ほどのアフリカからの難民の男性たちが共同生活をしていました。そのほとんどが経済難民で、ジャスティスのような政治難民は他にいるかどうかは分かりません。
国内情勢や海外のニュースをいつもチェックして知識が深いため、他の難民から「Professor」と呼ばれているそうです。
ジャスティスは2ヶ月前からドイツ語を勉強し始めたそうですが、「どんなに貧しくても、本当はガンビアにいたかった。記者でさえなければあの国は本当に過ごしやすいからね。単なる難民としてドイツで生活するのは本当にしんどいよ。やりがいを感じながら出来る仕事につかないで、こうやって毎日を過ごしていて、バカみたいだ。僕はアフリカから来ているからね、ドイツ人は僕を見ると薬物の売人だと思って声をかけてくる人だっているんだよ」とため息をつきながら話してくれた。

「僕はいつだってジャーナリストに戻りたいし、それ以外の仕事は考えられないんだ。何もいらないから取材活動がしたい。いつかガンビアの状況が変わる日が来たら、ガンビアに戻って新聞社を作りたいと思っているんだ」ということを何時間もずっと語っていました。

20160222-DSC_8828

(難民収容施設のベッドに腰掛けるジャスティス)

ドイツでは連日、難民問題がニュースで報道されています。日本にいる時にヨーロッパへ押し寄せる難民のニュースをテレビで見ていると、どうしても遠い国で起きていること、日本とは関係のない問題と思ってしまいがちですが、こうやって個人的にお世話になった人で、ドイツに来る前のことをよく知っている友人の今の難民としての暮らしを垣間みることで、この難民問題がよりパーソナルなものとして私の中で考えるようになっています。

いつか、ガンビアがジャーナリストにとって活動しやすい国になり、ジャスティスがガンビアに戻って新聞社を作ることが出来る日が来ますように。その時には、また是非写真を取らせて欲しいなと思います。

ボンヘイとの再会:カンボジア

2016年02月01日取材 海外

2015年の年末から2016年年明けにかけて、4年ぶりにカンボジアを訪れました。3週間の滞在の後半は、以前取材をしたボンヘイという男の子を探すためシェムリアップに移動しました。このwebsiteのポートフォリオ「ボンヘイのストーリー」に紹介してありますが、私がボンヘイに出会ったのは2009年の11月。観光地であるシェムリアップ中心部の繁華街から空港へ向かう大通りから小さな路地を入った所に、当時8歳だったボンヘイはおばあちゃんとお母さんそして2匹の犬と6帖ほどの高床式の小さな住居で生活していました。HIVに母子感染して生まれたボンヘイは、生まれつき耳が聞こえず、言葉も話すことが出来ない障害を抱えながらも、 お母さんとおばあちゃんに大切に育てられていました。私はボンヘイの家に約1週間泊まりながら取材をしたのですが、お母さんは将来どうやってボンヘイが一人でHIVに向き合って生きて行くのか、をとても心配していました。

DSC_0834
(2009年、当時8歳のボンヘイ)

 

2年後の2011年、再びボンヘイの家を訪ねると、かつてボンヘイが暮らしていた家は空き家になっていました。近所の人にボンヘイの居場所を聞いてみても「知らない、、」と口を揃え、どうしようかと思っていると、たまたま近くで会話を聞いていた男の子が「僕知っているよ!」と話しかけてくれました。その子に言われるがままに付いて行くと、アンコールワットのチケット売り場近くの集落に辿り着きました。ボンヘイのお母さんは既に2年前にエイズを発症し亡くなり、おばあちゃんと2人暮らしをしていました。2009年には学校に通っていたボンヘイは、この時には学校を辞めていて、おばあちゃんと遊園地などで空き缶を集める仕事をしていました。お母さんが亡くなったためか、10歳になったボンヘイはおばあちゃんを自分で支えなければと思っているのかなと2人の暮らしを見て感じました。

DSC_3788

(2011年、2回目の取材の最終日。10歳になったボンヘイとボンヘイのおばあちゃんと2人が暮らす家の前で)

そして3回目の今回。4年前にボンヘイがおばあちゃんと暮らしていた家がある集落に行くと、2人の姿はありませんでした。近所の人たちに話を聞くと、2年前におばあちゃんが亡くなり、その後はボンヘイがどこへ行ったか分からないと話をしていました。2人が暮らしていた家があった場所に行ってみると、家の形は残っていたものの、ペンキで木の壁が真っ赤に塗られ、中を覗いてみると戦争博物館に展示しきれなかった弾や武器の置き場になっていました。その瞬間「孤児になってしまったボンヘイはどうなってしまったのか!」と不安になり、近所の人たちに聞いても誰も分からず、結局近所の男性に私とこの時にたまたま運転をしてくれていたトゥクトゥクのドライバーの運転手の携帯電話の番号を伝え、ボンヘイの居場所を調べてほしい、そして分かったら連絡をして欲しいと伝えました。せめて、おばあちゃんが亡くなる前に訪ねていれば良かった、、と思っていた、その時「僕その子の場所を知っているよ!」と男の子が話しかけてきました。4年前と同じように住居をかえたボンヘイの居場所を知っていたのは同世代の子どもでした。10歳ほどに見えるこの16歳の少年の後を付いていくと、外国人観光客で賑わうシェムリアップのオールドマーケット近くの路地裏からボンヘイが出てきました。4年ぶりに再会するボンヘイはビックリしたことに私を見るとニッコリ笑い握手をするために手を差し伸べてくれました。髪の毛はボサボサで洋服は汚れていました。昼間は道ですれ違う外国人観光客にお金を貰い、夜はシャッターが閉まった店の前の道路で寝ている、とジェスチャーで伝えてくれました。その時、「ボンヘイの名前を知っていて、ボンヘイの家族に会ったことがあって、しかもボンヘイがHIVに感染していることを知っているのは、もう私一人しかいないのではないか」とその状況が信じられなくなりました。すぐにボンヘイを連れて運転手と一緒にまずは近くの屋台で簡単な食事をしました。ボンヘイはHIVに感染して、家族もなくし、頼れる人が誰もいない中で、一人でたくましく生きているんだと、このあまりに理不尽な現実を受け入れられなくなりました。2年前に使っていたお気に入りの自転車はボンヘイよりも大きな他の孤児たちに壊されてしまったとのことでした。 初日に運転手をしてくれたトゥクトゥクの運転手ピトゥーと相談し、ボンヘイと再会した3日後にシェムリアップにあるアンコール小児病院へボンヘイを連れて行きました。というのも、6年前にお母さんと一緒にボンヘイが時々診察を受けていたことを思い出し、この病院だったら孤児院を紹介してくれるのではないかと思ったからです。ボンヘイを連れて病院の受付で事情を説明すると、すぐにHIVの診察セクションへ案内してくれました。診察室から女性の看護師が出てくると、彼女がボンヘイを見るなり、「も〜この子探していたの、ここ数日間!連れてきてくれてありがとう」と突然フレンドリーに話しかけられました。するとボンヘイが照れ臭そうに下を向きました。最初は事情が掴めなかったのですが、話を聞くと、おばあちゃんが亡くなった後、ボンヘイは小児病院に紹介されたNGOに引き取られ、NGOの施設に入所したのですが、時々他の子と喧嘩をしたりして、施設を逃げ出すことがあると教えてくれました。私がボンヘイに出会ったのはちょうど施設を逃げ出している時だったのです。病院の看護師の女性がNGOのケアマネジャーに連絡を取ると若い男性がバイクですぐに飛んできました。最初はこのNGOがどれだけボンヘイの面倒を見ているのか不安に思ったのですが、ボンヘイが施設にいない時にもどこで行動し、どこで寝ていて、私がボンヘイに出会ったオールドマーケット近くのお店の前で寝ていることも全て把握していました。ボンヘイの担当者であるこのNGOの男性の名前はチャントルさん。「施設は刑務所ではないのだから、ドアはいつもオープンにしてある。ボンヘイが外に出たいと思う時に、私たちには彼を力づくで連れ戻す権利はないんです。その代わり、ボンヘイが施設の外でどう生活し、どこで寝ているのかはいつもフォローし、時々HIV患者が飲む薬を飲ませるために、ボンヘイがたむろしている道端へ行って飲ませたりしています」という。時々気が向いた時に施設にフラッと帰ってくるのだそう。そしてしばらくすると外に行くのだそうです。シェムリアップが安全な町だからこそ、ボンヘイに自由を与えられるのだなと思いました。そして、確かにチャントルさんの言う通り、ボンヘイの意志を尊重して、ちょうどいい具合にボンヘイをしっかりフォローしていただいているのが分かり、本当に安心しました。おばあちゃんが亡くなってからの2年間はこのようにしてボンヘイのケアをしてきたそうです。この日ボンヘイはチャントルさんと一緒にNGOの施設に帰ることになりましたが、その前にNGOが経営するカフェで ボンヘイとチャントルさんと一緒にランチをしました。ボンヘイは4年前よりも、ジェスチャーでコミュニケーションを取るのが上手くなっていて、私とも意思疎通がそこそこ出来るようになっていました。驚いたのは、4年前にボンヘイとボンヘイのおばあちゃん3人で自転車に乗って、空き缶を集めるために遊園地に行った帰りに、私が自転車に乗りながら、自転車を運転するボンヘイの後ろ姿を撮影していた時のことを凄く楽しそうに伝えてきてくれたこと。4年前の滞在は数日間だけだったのに、当時のことを覚えていてくれたことが分かり、とても嬉しく思いました。

カフェでランチをした2日後、再びボンヘイを訪ねにNGOの施設にいきました。その時にチャントルさんがボンヘイにエイズの発症を遅らせる抗レトロウィルス薬についてジェスチャーで説明している姿を目にしました。チャントルさんによると、ボンヘイはエイズのことを100%理解していなくても、この薬を飲むことがとても大切だということはちゃんと理解しています、と話していました。
この時に、6年前に今は亡くなってしまったボンヘイのお母さんが、「息子が一人になった時にどうやってHIVに向き合って生きて行くのか。。。」と心配していた時のことを思い出しました。家族がいなくなっても、ボンヘイがこうやってたくましく生きている姿を、きっとボンヘイのお母さんは安心して天国から見ているんだろうな、と思いました。

DSC_0074

(2016年1月、14歳のボンヘイと)

 

DSC_0065
(ボンヘイをサポートするNGO が経営するカフェで、NGOのスタッフとボンヘイとランチをした時に:2016年1月)

 

DSC_0092
(ボンヘイにエイズの発症を抑える薬についてジェスチャーで説明するNGOスタッフのチャントルさん:2016年1月)