東京・山谷の年越し(路上の芝居)

2011年01月10日日本

昨年の2月から、山谷地域の撮影を始めました。そして山谷で暮らす人々にとって、この季節はまさに寒さとの戦い。路上で亡くなる方も多くいるのだそうです。今回は年末年始に山谷で撮影した写真の中から3枚をご紹介したいと思います。

山 谷は日本の高度経済成長(昭和30年代)に伴って、土木・建築作業の労働需要が高まり、全国有数の「寄せ場」(日雇労働市場)に成長しました。東京オリン ピック(昭和39年)開催に向けて進められた都市整備、建築作業は山谷の日雇い労働者の力なしにはありえなかったと言われています。当時は222軒もの簡 易宿泊所(ドヤ)があり、15,000人が宿泊していたという記録があります。

しかし、平成のバブル経済崩壊後、労働需要は急減し、さら にかつての日雇い労働者の高齢化が進んだことで建設現場などでの肉体労働が困難になり、路上での生活を余儀なくされる高齢者も増加しました。現在、山谷に は高齢化で自立が困難になりつつあ日雇労働者が多く暮らしています。

山谷の労働福祉施設利用者の平均年齢は61歳。現在山谷にある簡易宿所(ドヤ)170軒で生活する宿泊者は約4680人(平成22年3月時点)、その6割以上が生活保護を受給しています。

 

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山谷の城北労働福祉センター前の路上では大晦日の午後6時から「さすらい姉妹」による、戦後間もない日本を舞台にした
本格的なお芝居が上演されました。

 

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お芝居を前に、体を暖める役者の女性

この後、午後9時頃からは支援団体から年越しそばが振る舞われました。そして、それぞれが路上や簡易宿泊所で年を越しました。

「山谷」地域というのは、南千住駅から骨通を南下した泪橋交差点を中心にした面積約1.65㎢の地域です。

 

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−骨通(コツ通り)−

南千住駅から続くコツ通りは、駅前の小塚原刑場(江戸時代の罪人を処刑した刑場)で処刑された罪人の骨(コツ)が出るからコツと呼ばれるなどと言われることもありますが、「小塚原」のコツを取って名付けられた、ということなのだそうです。

また、小塚原では安政の大獄で処刑された吉田松陰や橋本左内も埋葬され、杉田玄白が小塚原で刑死者の解剖を見て、後に「解体新書」を翻訳したことから、その記念碑も設置されています。

この写真奥には泪橋(なみだばし)交差点がありますが、ここは江戸時代、小塚原刑場に行く罪人たちが涙の別れをしたことから泪橋と名付けられたという言い伝えもあります。