福島 ~sign~
2011年3月、東日本大震災後に発生した、福島第一原子力発電所の事故。 その直後に福島第一原子力発電所周辺の市町村に突然引かれた境界線。分断された土地の中で、それまで培われてきた人間の暮らしは一瞬にして奪われた。当初「警戒区域」に指定された、福島原発からの半径20キロの全域では 約8万人の住人たちが故郷を追われた。
春の富岡町では満開の桜並木が美しく、夏の双葉海水浴場は多くの人々で賑わった。浪江町の請戸では涼しい潮風を浴びながら住人たちが釣りを楽しんだ。秋のキノコ狩りはこの地域の食文化だった。山、川、海に囲まれ変化に富む地形の中で、昔から豊かな自然と調和した人間の生活が営まれて来た。
震災から3週間後の4月5日、初めて原発近隣の地域を取材した。津波の被害を受けた沿岸部は、3月11日から完全に時間が止まっているようだった。4月上旬までは瓦礫撤去や行方不明者の捜索が始まっておらず、津波に流された家々や瓦礫、陸に押し上げられた船で、足の踏み場がなかった。静まり返った浪江町や双葉町の海岸で、かすかに聞こえてくる海の波の音や、残された犬たちの鳴き声、綺麗に咲いた桜の花を見た時に「時間」は動いているのだと実感した。
原発事故に翻弄され、親しんだ土地を去ることを余儀された人々にとってのふるさととは、どのような場所だったのか。土地に残された思いやサインを写真に写したいと思った。 津波から避難した住人たちが一晩を過ごした避難所では、ロウソクのまわりに椅子がいくつも置かれたままの状態になっていた。津波から避難した人々が一晩灯りを囲んで語り合っていたという。綺麗に包まれた枯れた花束が自転車の前カゴに入ったままになっていた。突然の避難命令で花束を自宅に入れる時間すらなかったのかもしれない。夏になると、動物の鳴き声が少なくなり、餓死した犬やネコ、家畜の姿を目にすることが多くなった。秋から冬にかけて、鮮やかな赤く実を付けた柿の木があちこちで見られた。かつて米を耕していた飯舘村の畑には今は汚染された土などの除染廃棄物が置かれている。富岡町で生まれ育ったある男性は、こう想いを話してくれた。「上野行きの特急が止まる富岡駅は、人生の旅立ちのホームだった。今は雑草で覆われている駅の線路の向こうに、未来や夢を抱いていたんです」。